絲山秋子
+--May 05, 2008--+
「逃亡くそたわけ」絲山秋子

「逃亡くそたわけ」読了。
これは不思議な本でした。精神科の病院に入院していた二人が病院から逃亡する短い小説で、一気に読んだのですが、逃亡の過程と一緒に読んでいるこっちも気分が左右されて。
以下、ネタバレ気味になるかもしれません。
最初読み始めたときにはちょっと脅威を感じてしまったというか、この作家、主人公の躁の症状の描写が上手というか、そういう症状を体験したことのない私にもすごくわかるんです。これが、そうした症状に引き込まれそうで怖い。
絲山秋子の公式サイトを見ればわかるように、ご本人も躁鬱病の経験者、いや日記を見ると今も薬を飲んでいるようですが、経験者なら誰でもこんな文章を書けるわけではもちろんないですよね。
私は色川武大の文章も好きなんですけど、あちらはもうちょっと通常とは違う世界として境界線の向こうを描いている感じ。でも絲山秋子の文章は、通常の感覚の延長上でいつのまにか病気の世界に行ってしまいそうな、明快な境界線がない感じなのです。
でもホント、例えば私は仕事でプログラミングをするのですが、これって乗っちゃうと止らないというか、私は特に自宅でやっているので行けちゃうときは睡眠も食事も二の次で、ノンストップでやってしまうのですよ。その方が毎日同じペースでやるより作業効率いいですし。プログラミングに限らず人がする作業であればそういう波ってありますよね。その乗れているという状態が極まっちゃうと病理的に躁の状態まで行っちゃうのかな、とか考えちゃうんです。
だから、最初はちょっと距離を置いて、警戒して読んでいたわけですよ。そっちには引きずられないぞって。すると、文章もだんだんそういう力がなくなってきて、つまり逃亡しているうちに主人公の症状も徐々に徐々になんだけど減っていくんですよね。
で、そのうち「この小説、特に面白くもないよなあ」なんて思ってくるんだけど、読み終わった今振り返ると、たぶんその頃ってちょうど主人公も逃亡に飽きているんです。
その後またちょっと盛り上がったり盛り下がったりして、もう帰ろっかということになるんだけど、この「もう帰ろうか」というのが、すとんと腹に落ちるんですよね。知林ヶ島の砂州が消えていくのを見て帰ろうかと思うなんてすごく技巧的なんだけど、逃亡のテンションが下がるときにちゃんと下がっているから、「うん、もう帰っていいんじゃない」と思えるの。
この、途中読み手の私が小説に飽きてくるのと、小説内の主人公の逃亡に対する同期具合がすご〜く不思議な感覚です。ただ、こういう文章、2回目以降の読書はどうなんだろうという気はしますが。
+--March 16, 2008--+
「沖で待つ」絲山秋子

「沖で待つ」読了。
不思議な終わり方をする小説ですね。小説として終わった感じがしない分、本当にあった話を友達から聞いているみたいな気もする。「小説」を読むぞ、って気持ちでいると、あれぇ?って感じ。でも肩透かしを食らうってわけでもなくて、何だか納得してしまう。
でも、描いていることが私にはイマイチわからないんですよね。たぶん、会社員の方なんかは同期に対するこの感覚とかわかるんだろうと思うのですが、組織にできる限り属さずに生きたい私には、絲山さんが会社というものに対して持っている印象が、頭では何となくわかっても、心情的によくわからないのです。
同期との奇妙な約束の小説「沖で待つ」だけでなく、同時に収録されている「勤労感謝の日」の方でも、学歴社会全盛期に学生時代を過ごして、そのまま大企業に入った人の臭いを感じるんですよね。「何らかの組織に属しているのが普通で、そうでない人は珍しい」という概念とでも言おうか。私も自分が独立するまでは、独立するってすごいことだと思っていましたけど、実際には珍しいことでもすごいことでもない。どちらも数ある道の一つにすぎないんですよね。
しかし、そんなことはどうでもよくて、この本を読んだのは、実はyoriさんのこの記事を紹介したかったからです(笑)。「沖で待つ」というタイトルからこんな内容を連想するとは、yoriさん、大好きです。でも、同性愛はともかく、飛び降り自殺というモチーフもあるし、全く無関係でもないような気がしたりして。







